三輪山



− 国譲り −

三輪みわ山(奈良)は、大神おおみわ神社の御神体になっていて神奈備かんなび山とよばれる。山そのものが御神体であるため、本殿はない。拝殿御神体の間に三つ鳥居が置かれ、祭神の大物主命おおものぬしのみこと大己貴命おおなむちのみこと少彦名命すくなひこなのみことの三神を一体にしたものだといわれている。

神道では出雲の大国主命おおくにぬしのみことと大物主命は同体とされ素戔男尊スサノオの子とも六世孫ともいう。もともと大和三輪の先住民の王であった大物主命が、大和朝廷に敗北し国譲りして出雲に流され、後に出雲大社として祀られたとする「神々の流竄るざん」梅原猛説がある

平安時代の「口遊くちずさみ」に、大きい順に出雲大社、東大寺大仏殿、御所の大極殿であったとされ、大社はもともと96mありその後48mになった。これは、東大寺45mよりも大きい。2000年4月に巨大神殿跡が発見され、日本書紀と古事記の「国譲り」神話にでる大国主命が造った国土を天上の神に譲る代償として大きな宮殿を求めたエピソードを裏づける。近くの荒神谷遺跡から358本の銅剣、加茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が発見されたのも、権威の象徴を放棄するために埋めたとみられる。

<「出雲大社と大国主命」「いなばのしろうさぎ」と「だいこくさまのお話」は国造りから国譲りにいたるエピソードが面白い>
三輪山は国中くんなかの神であり、大物主命は恐れられたにもかかわらず、皇祖神を祀る社を東国の海の玄関である伊勢にしたのは、壬申の乱の折国中くんなかの大和は近江側であり、天武天皇は伊勢、伊賀、美濃、尾張、三河といった東国を味方にして勝利したことに由来する。
国譲りされて引継いだ古代王朝の三輪王朝(祟神すじん天皇以後五代)が衰弱したあと、権力は生駒山脈を西に越えて河内王朝(応神、仁徳、履中)に移ったとする。

実在視される祟神を初代とし、万世一系の天皇家は三王朝交代(祟神・応神・継体で代わった)したとされる。
神話の神武も実在の祟神も、ハツクニシラススメラミコトという。これは、ハツめてクニ統治シラスした天皇スメラミコトに通じる。

日本書紀によると神武天皇は、日向から筑紫つくしを経て河内へ東征し、熊野で八咫烏やたがらすに案内され大和にたどり着いた。大和で饒速日にぎはやひのみこ(物部の祖)は妻の兄である長髄彦ながすねひこを殺し服従する。
三輪山から香久山にかけて磐余いわれといい磐余彦が勢力を覇っていた。六世紀欽明朝のとき大和の大王家おおきみけの始祖として磐余彦を神武に擬したとする説もある。

箸墓はしはかが近くにあり、謂われは、倭迹迹日百襲姫やまととびももそひめの夫・大物主命が蛇であったことに驚いて「すなわはしほときてみまかりましぬ」と日本書紀にあるところからきている。卑弥呼ひみこあるいはその後をついだ台与とよの墓との説が高まっている。
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ヤマタノオロチ

幾百幾十の山や谷を越え、ずるりずるりと這い出してきた大蛇おろちが、洪水のときには八岐やまたに裂けて暴れまわり、川下の村々を荒らし尽くす。そのときの水勢で大蛇は河口の位置を大きく変えることがあった。
山中の風化した御影石を上流の斐伊川に投げ入れると、激しい流れはそれを揉み砕いて砂と砂鉄に分離させる。砂鉄は川底に沈殿して純度の高い真砂鉄となり、鑪たたらの溶鉱炉の凄まじい焔の中で焼かれ、熔かされ、再び斐伊川の水に戻されると湯煙を噴いて、上質の水鋼みずはがねにまで成長する。しかし、鉄と別れた砂の方はどんどん川下に押し流され、浅い川はいよいよ洪水を招きやすいという悪循環を繰り返す。
斐伊川は目には見えない動きで少しずつ左から右へいざっているさまに、里人たちはただ首をすくめるばかりで、大蛇が動いておるげなというばかりであった。
         (「出雲の阿国」有吉佐和子より)

もののはじめの「もの」については『七支刀』に載せた


  
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