四天王


四天王してんのうは、古代インドの護世神が仏教に取り入れられ、四方を守る護法神となったものとされている。仏教の世界観の中に存在する須弥山しゅみせん中腹の四方に配されることから、仏寺の須弥壇しゅみだんの四方に安置される。
持国天(じこくてん)
インドラ(帝釈天)に仕える四天王の1人で、乾闥婆(けんだつば)王が持国天であると見なされている。
インドラが東方の守護神であることから、仏教神話では、持国天は須弥山(しゅみせん)の中腹に住して東方を守護する武神であるとされている。
形像は、あまり一定はしていないが、右手に宝珠(ほうじゅ)、左手に剣などを持つ。

写真左上
広目天(こうもくてん)
四天王の1人で、須弥山西方中腹に住して、西方を守護する。
広目天(ヴィルーパークシャ)とは、「通常でない眼を有する」という意味であり、ヒンドゥー教の主神シヴァも額に第三の眼を有するので、ヴィルーパークシャと呼ばれている。広目天の形像に三叉戟(さんさげき)を持つものがある。
甲冑を着けた「忿怒形(ふんぬぎょう)」で、右手に筆、左手に巻物を持つ。

写真右上
増長天(ぞうじょうてん)
「ぞうちょうてん」とも読む。須弥山の南面中腹に住して、鳩槃荼(くばんだ)などの鬼神の首領であるとされている。 南方を守護するので南方天ともいわれる。また、十六善神の一つにも数えられている。
形像は、赤肉色で忿怒(ふんぬ)の相を示し、甲冑の上に天衣(てんね)を着て、右手に剣または鉾(ほこ)を持つ。
写真左下
毘沙門天(びしゃもんてん)
本来は、多聞天(たもんてん)ともいわれ、ヒンドゥー教における財宝の神クベーラの別名で、独尊として祀られるとき毘沙門天と呼ばれるのが一般的。また、七福神の一つにも数えられている。 須弥山の第4層にいて、四天王のうちで最も由緒正しい神であり、夜叉(やしゃ)・羅刹(らせつ)の衆を率いて北方を守護する善神である。 邪気を踏み、手に宝塔と宝棒を持つ。
四天王寺は、推古天皇元年 (593)に聖徳太子が建立した日本仏法最初の大寺である。
新しく渡来した仏教を支持する蘇我氏と日本古来の宗教を推す物部氏の二大豪族の狭間で 、蘇我派の聖徳太子(16歳)は仏教の守護神、四天王に祈願して戦いに勝利した。
その報恩謝徳のために建てたのが四天王寺で、四箇院 (敬田・悲田・施薬・療病) を構え、広く一般民衆に手をさしのべ、太子信仰の拠点となると同時に、庶民救済の中心地となった。また、海外諸国からの使節や渡来者はまずこの地から上陸し、軍事上、外交上の要衝として、また国威を示し迎賓館としての役割も備えていた。
大聖勝軍寺だいしょうしょうぐんじは、物部守屋もののべもりやの本拠地『渋河しぶかわの館』があった所で、そこに建てられた寺。物部討伐軍に参戦した聖徳太子が物部軍に追われたとき、むくの木が二つに割れ空洞に身を隠し九死に一生を得たといわれ、そのむくの木が境内にまつられている。推古天皇は椋樹と大聖聖徳法王の勝ち軍を讃え、神妙椋樹しんみょうりょうじゅ山大聖勝軍寺という山号と寺名を賜ったという。境内には、物部守屋もののべもりやの首を洗ったという守屋池や馬蹄石があり、近くに鏑矢かぶらや塚、弓代塚、守屋の がある。
古代大阪は、「なにわの津」といわれ国際交流の一大拠点だった。なかでも四天王寺は国際外交の桧舞台で様々な交流が行われた。四天王寺ワッソは古代アジアの国際交流を雅やかに再現する。ワッソは韓国語で「きた」の意で、祭で御輿をかつぐかけ声の「ワッショイ」はワッソが語源といわれている。
は、まいとし11月の第一日曜日に史跡・難波宮跡公園で開催される。


  

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