倭の五王


五世紀、倭の五王たちは中国と朝鮮諸国との関係が強まる動きに対抗し、東アジアでの倭国地位を確立すべく中国・宋に使者を送った。(「宋書倭国伝」)
五王とは宋書の済・興・武が記紀の允恭いんぎょう安康あんこう雄略ゆうりゃくの三大王おおきみ(天皇)にあたり、讃は応神おうじん仁徳にんとく履中りちゅう、珍を反正はんぜい或いは彌を仁徳とする諸説ある。
分りやすく説明すると「仁徳天皇と3人の子と2人の孫」。
仁徳を五王に含める説の場合「仁徳一家五人」。
ちなみに五王を数に見合わせると、
?讃、?珍、済、?興、?武と並んでしまう。

古代の大王で最も度量が大きく勇断で指導力のあるのはカリスマの独裁者・応神天皇(誉田ほんだの大君)で学界にはその存在性を否定する者はいない。神攻じんぐう皇后(息長足姫おきながたらしひめ)を母とするが、こちらは寧ろ神話の世界の存在とされる。
応神の子が仁徳で、その子達が長男・履中、三男・反正、四男・允恭である。

仁徳は、難波の質素な萱葺きの高津の宮で、高台に登ってみたが夕飯時にも拘わらず飯を炊く煙がみえないと、3年間税と役をやめた。
「たかき屋にのぼりてみれば煙立つ 民のかまどはにぎわいにけり」
3年後に詠んだこの一首は、仁徳の御製として新古今和歌集に撰ばれた。


去来穂別いざほわけ(履中)は酒好きで酔いつぶれている所へ野心家の次男・住吉仲皇子すみのえのみこが宮殿を襲った。瑞穂別みずほわけ(反正)が住吉仲皇子の警護役をそそのかして殺し、ついでその男を主君殺しの罪で殺す。
雄朝津間稚子おあさづまわくご(允恭)は、成人して大病後重い後遺症が残り隠れて荒療治したのが却って障害が進んでしまった。後に新羅の薬師の手で完治した允恭は性格も政治手法も仁徳に似て善政を布いた。
雄略は允恭の子で獲加多支鹵わかたけるという。昭和53年に埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に記した名だ。雄略は高句麗攻略の包囲網を形成するため南朝の宋に国書を送った(宋書倭国伝)。倭は既に関東から九州まで統一し、更に神攻皇后の決断によって朝鮮半島に進出し、応神の征伐を合わせ海北の95カ国を征したという。
しかし、仁徳の孫の孫の代になる第25代武烈でもって皇統が断絶する寸前まで追い詰められる。少なくとも、仁徳天皇の系統いわゆる「倭の五王」の時代約百年間で終ったといえる。

四世紀はまだ玉とかくしろとかいう手に巻く装飾品しか出ず呪術的だったが、五世紀になると馬具が大量に出土する。

五王最期の王・雄略が亡くなった後、倭王を支えることによって自己の勢力拡張を図っていた豪族達に非常に混乱が起こった。そこで大連おおむらじの大伴氏が越国の男大迹大王おほどのおおきみ(継体)を擁立して大和に入れようとした。

2001年9月、継体天皇陵とされる大阪府高槻市の今城塚古墳(前方後円墳)で、日本最大級の家形埴輪はにわ等大量の祭祀跡が見つかった。
円筒埴輪の外側で水鳥、鶏、馬といった動物や力士やいすに座った人物がひとかたまりになって同じ方向を向いたり、太刀形や盾形の埴輪はにわや祭祀の様子を彷彿とさせる状態だった。
全国で二例目という儀礼用の「玉纒太刀たままきのたち」を腰に差した武人の埴輪も出土し、大王陵にふさわしい格式をもつのが注目される。平成天皇の大嘗祭に、その原型がみれると推定される。
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*日本古代史諸説*