陸奥むつ

陸奥と出羽の奥羽つまり現在の東北には、はじめ蝦夷(えぞ、えみし。アイヌを含む)狩猟生活をしていた。
そこに西日本の水稲農業の耕地化が進み、武力で追われたわけではなく、ただ草獣がいないため東へ東へと移動したのかと思える。やがて、那須国造なすのくにのみやつこなどの農業集団ができあがるころには、ついに奥羽おううにたどり着いた。

七世紀後半、安部比羅夫あべのひらおが水軍を率い日本海上を北上して、この軍威に従い耕作して租税を納める者を「田夷でんい」とし、狩猟者を「山夷さんい」といって討伐の対象にした。
天平の聖武天皇しょうむてんのうのころ、飢饉や疫病と権力争いが諸国に国分寺を造らせ大仏建立に願いをかけた。鑑真がんじんを唐より招いたのもこの時代だ。
仏は黄金で包まれるが、日本に金は産出しなかった。そこに天平21年(749)陸奥黄金が発見されたという朗報が舞い込んだ。
この瞬間から陸奥は朝廷にとり宝の蔵に変わり、蝦夷との果てしない戦いが何世紀にも亘って繰り広げられることになった。
平安期の桓武天皇は律令体制を推し進めるため、延暦23年(804)征夷大将軍坂上田村麻呂さかのうえたむらまろを派遣し岩手・水沢付近まで行きまつろわぬ蝦夷の首領阿弖流為アテルイを征伐し胆沢いさわ城を築き律令国家の北限にした。

− 鬼 −

桃太郎一寸法師で退治されるのは、いつも
鬼が日本に出現するのは古代にさかのぼり、ただ「あしきもの」といわれていた。鬼とは、中国では幽霊を指していたものだった。
大和朝廷は、反体制勢力を鬼と呼び蔑視した。とくに東北や九州の勢力等は、鬼と呼ばれ朝廷から武力行使を受けた。
朝廷に従わぬ地方豪族を鬼に想定することで、討伐する大義名分を得た。そして、地方豪族が一掃されるや今度は盗賊等が鬼とされ、鬼は都を跋扈し山に潜んだ。

俗に幽霊が出るという夜中の2時は「丑みつ時」と呼ばれ、十二支の方角からきている。
即ち、12時がねずみ、1時は牛、2時は寅...と順番にふっていくと夜中の2時は丑が最も満ちた時間、つまり丑みつ時となる。
当然これを方位に置き換えると「艮うしとら=鬼門」ということになる。幽霊の出る時間と鬼の来る方角が一致している。
鬼のスタイルが、牛の角にトラのパンツというのも鬼が入って来る鬼門が丑寅だからなんだ。まさしくオヤジギャグそのもの。

一方、桃太郎に従い鬼を討った3匹の動物は、猿・キジ(鳥)・犬であり、その方角は幸運が来るという西を指しており、方位が丑寅と対になっていて奥が深い。