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      日本古代史諸説

いろいろな説をご紹介

時がへだたり物証が説を裏付けているというわけでもなく、只傍証にはなろうという趣意からいろいろな説をヒ゜ックアッフ゜したにすぎない。今後の考古学的発見と研究にゆだねることにしたい。

日本人のはじめ ?
稲作の起こりは紀元前三千年といい、起源は中国・江南ともいい、東南アジアだともいう。稲作がアジアの文明を一変させるものであったが、日本列島を知るにいたるのは、紀元前四もしくは三世紀頃であったろうか。
江南のイネ民族の移動は、一部は南朝鮮へ行き一部は北九州で定着したという。或いは中国北部の漢民族の手で朝鮮へ行き朝鮮半島を南下して北九州に到着したともいう。
稲作が可能なだけの人間の群れがこの新たな可能性をもつ島々にやってきて縄文人と混血し、こんにちの日本人ができあがった。文化概念でとらえている日本人というものの成立は弥生時代の開幕からといってよく、その意味では新大陸にヨーロッパ人が住みついてアメリカ人ができあがった事情と似ている。
この弥生式稲作農耕とともに、鉄器が入ってきた。弥生前期の鉄器の出土県は八府県あり、福岡・熊本・鹿児島が九州でさすがに日本における弥生式農耕の源流地であることを現わしている。後は、山口・広島・兵庫・大阪・奈良である。
それらはいろんな角度からみて鉄そのものは「国産品」でなく「舶来品」であるらしい。
その後例えば、江戸時代の大工道具の多種類さには驚くべきものがあり、一目的一道具という道具面の鉄器の豊富さと廉価さが江戸期の大工仕事をそのように方向付けたのはなんなのか?
つまりは水が豊富だということが鉄器を多産したということにさかのぼれそうで、即ち『一に粉鉄、二に木山』というように膨大な木々を必要としたので、乾燥期の高いアジアはかがやかしい古代治金時代の終了とともに社会を閉じたといえそうで、日本風土は木々を量産するのに適していた。

天皇家の出発点は ?
四世紀半ば頃から六世紀半ば頃、倭国が南朝鮮に持った植民地的領域というか飛び地領としての地名に
加羅国カラ 伽椰国カヤ  任那国ミマナ  が今の金海付近にあったとされる。
実在視される初代天皇・祟神の名は、ミマキイリヒコといい、そのミマは任那のことで任那こそ日本の出発点であったとする説(江上波夫氏)である。 

兄・天智は弟・天武より年下 ?
近年、斎明を百済の王女。高向王を日本初の留学生として32年間中国で過ごした高向玄理で斎明と結ばれたとし、その子・漢皇子を天武天皇とする説が浮上した。

『日本書紀』の「斎明記」に、斎明は初に橘豊日天皇たちばなとよひのすめらみこと(用明天皇)の孫・高向王たかむくのおおきみに適みあいして漢皇子あやのみこを生れませり...とある。
「皇極記」には、皇極(斎明)天皇が舒明天皇との間にもうけた葛城皇子(中大兄皇子)を古人皇子が「韓人からひと」と呼んだくだりがあり、書紀にも斎明が百済人であったことをうかがわせる記述がある。
古代、百済からの渡来人は多くが「漢人あやひと」を称した。「韓人」も同義語であろう。


つまり、天智(中大兄皇子)と天武(大海人皇子)は、斉明を母親とする同腹の兄弟だが弟の天武の方が天智より年上の記述がみえるのを、以下のように解釈した。
天智の父を舒明天皇とし、舒明に嫁ぐ前に高向玄理との間に天武を生んでおり、天皇家の血を優先して第一継承権を天智にしたとする説だ。